Honjo Sightseeing Association

山車紹介

宮本町 泉町 上町 照若町 七軒町 仲町 本町 南本町 台町 諏訪町

宮本町の人形と山車

日本武尊

(やまとたけるのみこと)
制作明治15年 (三代目 原 舟月)・契約書あり
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車 (主体部がぐるぐる回転する)
修理平成5年:山車本体と漆・彫金等を㈲荒木社寺設計 平成27年:人形衣裳を㈱川島織物
景行天皇の第二皇子、第十四代仲哀天皇の父にあたり、兄弟に双子の兄「大碓命」がいました。武勇に秀でていたが気性が激しく、父からは疎んじられていました。成人になると美男子に成長し、父の命令によ り16歳の時に九州の豪族の熊襲を平定するように命じられ、叔母から頂いた小袖に身を隠して、新築の祝いの宴に乱入、酒を飲んでいた熊襲兄弟を討伐し、九州を平定しました。その後、大和に戻り再度、父の命令により東国に向かい、蝦夷を平定したと伝えられています。

人形製作者と山車

「原 舟月」は江戸中期から明治時期にかけて三代続いた人形師です。初代は以前からの雛人形に工夫を凝らして、目に玉眼(ガラス玉)を入れた優美な雛人形「古今雛」の発案者です。非常に精密な「支那彫」を用いて人形の持物や山車に使用する彫 物を製作しました。この「日本武尊」人形は、他の人形より顔付が非常に美男子に作られており、特に口の中の歯までが精密な細工がなされて「舟月」の作品の中でも傑作との呼び声が高い人形です。 尚、山車の構造としては「舟月」では殆んど例がありませんが、囃子台がある主体部が回り舞台のようにぐるぐると回転する装置がついております。町名額の「宮本街」の文字は「勝 海舟・高橋泥舟」と共に「三舟」といわれた一人「山岡鉄舟」が揮毫した物です。
明治後期頃

泉町の人形と山車

武内宿禰

(たけのうちのすくね)
制作明治28年(横山友治朗[朝之])
囃子台欄間式・床上勾蘭付
人形座二重枠組・せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成3年:請負者・日光兼光[彫刻師] 山車本体は松本工務店、漆・亀甲仏壇店 平成21年:衣裳修復は㈱川島織物
考現天皇の孫とも曾孫ともされており、大和朝廷の初期に活躍した伝承上の人物です。 記紀によれば、東国の蝦夷地を視察して政務朝の大臣となり、神功皇后に従い新羅(現在の韓国)を征し、言い伝いによれば、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたと伝えられています。その後の政治に深く関わる葛城・平群・巨勢・蘇我等の有力豪族の共通の先祖とされる人物です。

人形製作者と山車

「横山友治朗」は幕末期から明治期にかけて生き人形を製作して活躍した人形師です。 人形師が山車も請け負って納めますが、この山車の特徴は三重勾欄の正面中央が勾欄がなく人形の姿がよく見えるように工夫されていることです。 一重勾欄は、錦絵に書かれている様式の山車でありましたが、その後の改修で現在の形になりました。 尚、地元の人形師である松崎福松(松寿軒・米富久)は「横山友治朗」の弟子に入り修行した後に本庄に戻り山車人形や菊人形を製作する店を開業しました。
明治後期頃

上町の人形と山車

神功皇后

(じんぐうこうごう)
制作明治35年(横山友治朗[朝之])
囃子台唐破風屋根・床上勾蘭付
人形座二重枠組・せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成8年:請負者・㈱小西美術工芸社
記紀によれば、仲哀天皇の皇后であり、夫の天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の香椎宮で急死すると、皇后は妊娠中でありながら「武内宿禰」と共に対馬の和珥津を出航し、玄海灘を渡り朝鮮に出兵して新羅の国を攻めました。新羅は戦わずして降服し朝貢を誓い出ました。続いて高句麗・百済からも朝貢の約束を取り付けて、朝鮮を平定して帰国した後に「応神天皇」を出産したと伝えられています。

人形製作者と山車

山車と人形は、幕末期から明治期にかけて生き人形を製作し活躍していた浅草の人形師「横山友治郎(号を朝之)」によって、明治35年に製作されました。請負金額は750円(米一俵が約5円)であったことが、仕様書や契約書から伺うことができます。山車人形は高いところに飾られているので、下から仰ぎ見た時に一番美しく凛々しく見えるように作られています。山車は、改造もなく現在に至っており、製作当時の姿を残しています。町名額の「上街」の文字は、明治三書家の一人に挙げられた島村出身で後に貴族院議員となった「金井之恭」が揮毫したものです。
明治後期頃

照若町の人形と山車

桃太朗

(ももたろう)
制作明治33年(浪花屋七郎兵衛 [庄田七郎兵衛])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成6年:山車本体と漆・彫金等を㈲荒木社寺設計 平成18年:人形衣裳を修復、 平成29年:三重幕復元新調を㈱川島織物
おとぎ話に登場する桃太郎は、第七代考霊天皇の息子の吉備津彦命が、そのモデルであると伝えられています。 桃から生まれた桃太郎は成長すると、母から頂いたキビダンゴを持ち鬼退治に鬼ヶ島に向かいます。途中で犬、猿、雉を家臣にして皆の協力で鬼を退治すると言う物語は、子どもから大人まで楽しく親しまれており、子どもの成長を願う物語を題材にした人形です。

人形製作者と山車

「浪花屋七郎兵衛」は山車や人形の請負者です。人形師は不明です。 人形を購入後に何度か修理しておりますが、大正後期に写した人形の写真と現在の人形とは異なる事から、幾度かの修復の際に変化したと考えられます。人形の修復は幾たびか「松寿軒・米富久」が携わっており、推測ですが、現在の人形は「松寿軒・米富久」が製作した可能性も考えられます。 この山車は、昭和12年に囃子台を欄間式から唐破風屋根に変更して、鬼板・懸魚・囃子台欄間・二重の蹴込みに彫物を取付けましたが、彫物の製作者は不明です。山車は、地元の大工「竹並留雄」(大留)が請け負って改修を行いました。その後も再度の改修をしています。
大正十一年頃

七軒町の人形と山車

加藤清正

(かとうきよまさ)
制作昭和8年(松寿軒 米富久 [松崎福松])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成11年:山車本体・㈲社寺建築戸部、漆・斉藤漆工芸、平成26年:「頭」修復・㈱こうげつ人形店 平成28年:甲冑一式修復・㈱こうげつ人形店 平成28年:人形衣裳・㈱川島織
武将で安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した大名です。 幼少の頃より豊臣秀吉に仕え数々の武功を挙げた猛将で、賤ヶ岳の七本槍の一人として名を馳せた後に肥後国半分を与えられ大名となりました。 また、秀吉の朝鮮征伐においても多大な功名をあげ、その時の「虎退治」の話は、清正の勇猛果敢な人物像をよく表した逸話として有名です。秀吉亡き後は徳川家康の家臣となり、肥後一国を与えられ熊本城を築城、城下町の整備にも手腕を発揮し初代熊本藩主となりました。

人形製作者と山車

松寿軒「米富久」(松崎福松)は明治期に東京浅草の生き人形師「横山 友治朗」に弟子入りし、修行した後に本庄に戻り山車人形や菊人形を 製作する店を開業しました。門人には息子の松崎富司・堀越四郎・堀越義郎・中谷嘉重がおり、明治~昭和期に北関東一円に山車人形や菊人形を納めて繁盛しました。この人形は昭和8年に皇太子殿下ご降誕記念として製作されたもので、題材は加藤清正が石田三成らによる讒言で豊臣秀吉の怒りを買い、蟄居させられていた時に起こった大地震によって秀吉が居た伏見城が崩れた際に、蟄居中にもかかわらず切腹も覚悟で一番に駆け付けたことから、その行動に感心した秀吉に許され、蟄居を解かれたという忠義のエピソードを基に製作されました。松寿軒「米富久」の製作した人形の中でも最高傑作との呼び声も高い人形です。
昭和三年頃

仲町の人形と山車

神武天皇

(じんむてんのう)
制作明治24年(三代目 原 舟月)・契約書あり
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成8年:人形衣裳を㈱川島織物 平成15年:山車本体・㈲荒木社寺設計(秩父)
記紀、伝承上の天皇で名を「神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)」いわれました。高天原(たかはまがはら)から降臨した「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の曾孫になり「彦波瀲武鸕鷥草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこ)」の第四子で母は玉依姫です。 日向国の高千穂宮を出て瀬戸内海を渡り紀伊国に上陸して国を平定して、辛酉の年(前660年)に大和国畝傍の橿原宮(かしはらのみや) で即位したと伝えられています。

人形製作者と山車

「原 舟月」は江戸中期から明治時期にかけて三代続いた人形師です。初代は以前からの雛人形に工夫を凝らし、目に玉眼(ガラス玉)入れた優美な雛人形「古今雛」の発案者です。東京日本橋・本石町の十軒町に雛屋を開業しました。非常に精工な「支那彫」を用いて彫った彫物を山車や人形に使用して製作をしました。 山車と「龍女人形」は明治5年に購入しましたが、明治24年に再度、「舟月」に人形の製作を依頼し「神武天皇」人形を購入しました。その際に「舟月」と交わした契約書が現在も保管されています。山車の改造は、昭和 10年頃に囃子台を欄間式から唐破風屋根に変更しました。その際、鬼板・懸魚・柱に上り龍・下り龍、一重勾欄腰板に彫物を填めました。彫物は玉井村(熊谷市)「小林栄吉」が彫り、改修は地元の大工「粟野清吉」が改修を行いました。
明治末年頃

本町の人形と山車

石橋

(しゃっきょう)
制作昭和3年(浪花屋七郎兵衛 [庄田七郎兵衛])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成10年:山車本体と漆・彫金等を㈲社寺建築戸部 平成16年:人形衣裳を修復、平成19年:二重・三重 胴幕と腰幕を山口能装束研究所で新調
仏跡を訪ね歩いた「寂昭法師」は、中国の清涼山の麓へと辿り着きました。そこはまさに仙境であり更に、ここから山の中へは細く長い石橋が架かっており、その先は「文殊菩薩」の浄土であると言われています。法師は意を決して橋を渡ろうとすると、そこに現れた樵は尋常な修行では、この橋を渡る事は無理だから止めておくよう論し、暫く橋のたもとで待つ事を言い残して去っていきました。やがて橋の向こうから「文殊菩薩」の使いである獅子が現れて、香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れて、獅子舞を舞って浄土に導くという「能」の演目です。

人形製作者と山車

明治28年以前に、山車と人形があったとも伝えられているが確証はなく、明治28年、日清戦争の凱旋記念に山車と人形を「浪花屋七郎兵衛」から購入しました。人形は「からくり人形師」の「竹田近江大掾藤原縫之助清兼」が「翁」人形を製作して納めました。その後、昭和3年に皇太子殿下ご降誕生記念に、再度「浪花屋」に人形の製作を依頼して「石橋」人形に変えています。その時に二重幕も相州・鎌倉の刺繍師に依頼して「牡丹と蝶」の図柄の幕を新調して山車も修復をしました。 山車の改修は、昭和9年に再度行われました。二重、三重の勾蘭と「鶴と雲」の蹴込み彫物を使用し、鬼板・懸魚・柱に上り龍・下り龍、一重勾欄腰板に彫物を填めました。彫物は玉井村(熊谷市)「小林栄吉」が彫り、改修は地元の大工「根岸初太郎、竹越本治、岩井鶴吉」が行いました。
明治末年頃

台町の人形と山車

素盞嗚尊

(すさのおのみこと)
制作明治18年(浪花屋七郎兵衛 [庄田七郎兵衛])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
修理平成13年:山車本体と漆・彫金等を㈲社寺建築戸部 平成21年:人形衣裳と三重幕の復元新調を㈱川島織物 平成27年:二重幕の復元新調を㈱川島織物
記紀によれば、出雲系神統の祖とされる神です。「伊弉諾・伊弉冉」の二尊の子でした。「天照皇大神」の弟で、粗野な性格から「天の岩戸」の事件を起こした為に「根の国」に追放されたが、途中の出雲国で八岐大蛇を退治して「奇稲田姫」を救い、大蛇の尾から「天叢雲剣」を得て「天照皇大神」に献じました。「出雲国風土記」では温和な農耕神とされています。

人形製作者と山車

人形と山車は明治18年に購入し、請負者は「浪花屋七郎兵衛」です。祭礼時に「東宝斉寿山」と書かれた木札が掲げられて居りますが、近年、児玉町仲町の古文書より山車師は「浪花屋七郎兵衛」、頭師は「東宝斉寿山」と書いた仕様書が見つかった事から、「東宝斉寿山」は人形師と判明しました。 山車は、昭和10年頃に囃子台を欄間式から現在の唐破風屋根に変え、また、車輪土台と囃子台が回転する装置を固定して前輪馬車式に改修しました。施工は地元の大工は清水林平と漆工の野村源光が請け負いました。 町名額の「薹町」の文字は「渋沢栄一」翁の師である「尾高監香」が揮毫したものです。
明治末年頃

南本町の人形と山車

連獅子

(れんじし)
制作平成3年・平成5年(纏屋[堀越義郎・堀越真二])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
山車製作南本町は平成3年、諏訪町は平成5年に製作 請負者:日光兼光、松本工務店
歌舞伎舞踊の題材で親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とし、駆け上がって来た子獅子だけを育てると言う故事に倣ったものです。人形は、白熊[はぐま]をかぶってた親獅子と赤熊[しゃぐま]をかぶった子獅子の舞い姿から表現されています。

人形製作者と山車

「堀越義郎」の師匠である父「堀越四郎」は「横山友治朗」の内弟子として、修行した後に地元に戻り人形店を開業した松寿軒「米富久」でです。仕事を継いだ「堀越義郎」は「米富久」に勤め、父と共に大正・昭和・平成に山車人形と菊人形を製作していましたが独立して「纏屋」人形店を開業しました。
平成3年

諏訪町の人形と山車

太田道灌

(おおたどうかん)
制作平成3年・平成5年(纏屋[堀越義郎・堀越真二])
囃子台唐破風屋根、床上勾欄付
人形座二重枠組、せり出し式
四つ車(前輪馬車式)
山車製作南本町は平成3年、諏訪町は平成5年に製作 請負者:日光兼光、松本工務店
鷹狩りで雨に遭った際に蓑を借りようと立ち寄った農家で、娘が山吹きの花を差し出し、「七重八重花は咲けども山吹きの実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」と詠った句の意味がわからなかったことを恥じて和歌の道に精進し、一流の文化人となりました。

人形製作者と山車

「堀越義郎」の師匠である父「堀越四郎」は、浅草の生き人形師「横山友治朗」で修業した後に地元本庄で人形店を開業した松寿軒「米富久」に弟子入りして修行しました。「堀越義郎」は「米富久」に勤め、父と共に大正・昭和・平成に山車人形と菊人形を製作していましたが独立して「纏屋」人形店を開業しました。
平成5年

本庄市観光協会